「かぐや姫の物語」感想

ジブリ映画「かぐや姫の物語」を観てきました。
数ヶ月前、宮崎駿監督の「風立ちぬ」を観に行ってこのかぐや姫の予告編を見た時は、この映画は観ないわーと思ったんだけど、いつのまにか観たいと思うようになってて。
宣伝の洗脳かねぇ。
観た感想。
はい、泣きました。なぜか2回ほど涙が出ました。
俺、ここ数年涙腺がゆるいのです。
子ども向けのみんなのうたとか聴いてるだけでうっかり泣けてしまうような。
頭の中で、何かの扉が開けっ放しになっているんでしょうね。
かぐや姫は、まぁ、原作の古典「竹取物語」そのままですよね。
特に新しい解釈とかはなかったと思います。
この先、ちょっとネタバレあるかもしれませんが、まぁ竹取物語を知っていれば、およそすでにネタバレ済みという感じかも。
それでもこの映画で泣けてしまうというのは、それだけ竹取物語という作品が完成されているのと、音楽と映像の効果ですね。
かぐや姫は、楽園たる月にいながら地球への憧れを持ってしまったことで、地球に堕とされてしまうわけですが、都で望まない多くの求婚者に囲まれ「月に帰りたい」と強く思ったことで、最後には月からのお迎えに連れられ月の世界に帰っていきます。
この映画では、悩み苦しむことのない楽園である月の世界と対比させることで、地球側の、悩み苦しみもあるけど感情にあふれて生きるという世界は素晴らしいというのがストレートに表現されています。
月は悩み苦しみのない楽園なので、そこからの迎えは、仏の姿をしています。
でも、月の羽衣で地球での記憶をなくし、仏とともに月に帰って行くかぐや姫は白黒にも近いほど色あせて描かれていて、そこから振り返る地球は青すぎるほどに青く描かれています。
この映画の中では、仏や楽園は、賞賛すべきものではなく、人間らしく生きるということを賞賛するためのアンチテーゼなわけですな。
むかし何かの本で「かぐや姫は月の世界の罪人で、地球に流刑されたのだ」という解釈を読んだことがありますが、この映画でかぐや姫が月から地球に堕とされた、という設定は、その解釈を部分的に採用しているのかな。
ちょっとニンマリ。
さて、ストーリーの大筋は竹取物語そのままなので省くとして、ここでひとつ疑問。
なぜかぐや姫は、男たちの求婚をかたくなに拒んだのか。
それこそ、月に帰りたいと思ってしまうほどに。
かぐや姫を男から自立した女として描きたかった?
まさかまさか!かぐや姫は竹取の翁(じいさん)と嫗(ばあさん)にべったり依存してますよ。
野山を駆け巡る自由に懐かしさと憧れを感じつつ、自分一人では何もできない、自立からは程遠い子ども。
じゃ、いったいなぜ?なぜ数いる高貴な公達(イケメンもいます)や天皇からの求婚までも頑なに拒否するのか。
もしかして、高貴な人の妻としての暮らしは、月の楽園と同じ「悩み苦しむことのない楽園」なのか?
だから、かぐや姫は、生きる実感のないそんな世界に入るのを拒否した?
いや、おかしい。それは、おかしい。
だって、かぐや姫は、天皇から強引に求婚され、月に帰りたい、と思ってしまうんだから。
生きる実感のない宮中に入りたくないがばかりに、さらに生きる実感のない月世界に帰りたい、というのは矛盾してる。
では、幼き日、野山でともに遊んだ男ステマル(捨丸?)への恋心から?
ステマルが、かぐや姫にとって、一番生きる実感を与えてくれた野山での生活の象徴だとしたら、それはあるかなぁ。
事実、かぐや姫は、都からどこか違うところへともに逃げ出そうと誘う公達には一瞬だけど心がグラグラ揺れてるし。
やはりこの結婚拒否は、ステマルへの恋慕というかたちをとった野山での生活への見未練と憧憬、と理解すべきなのだろうか。
違う解釈ありましたら、ぜひコメントください。
総じて、俺はこの映画、好きです。
風立ちぬより、かなり好き。
気持ちよく泣かせていただきました。


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