一橋大学ロースクールに通う25歳の学生が、LINEのグループで同級生にゲイだとバラされ自殺したのは去年の8月だったそうです。
ニュースになっていたので知っている人も多いと思いますが、その学生は、ゲイではないストレートの友人に好きだと告白。
その友人の「付き合うことはできないけど、これからもよき友達でいて欲しい」という答えに「ありがとう」「悲しいけどすげー嬉しかった」と返していたそう。
ゲイにとってストレートへの恋はつらいです。
しかしその時点では、ストレートの友人の回答は、間違っていなかったと思います。
しかし悲劇はその3ヶ月後。
そのストレートの友人はよりによって10人ほどの友人が参加するLINEのグループチャットで「おれもうおまえがゲイであることを隠しておくのムリだ。ごめん」と暴露したのだそう。
学生は「たとえそうだとして何かある?笑」「これ憲法同性愛者の人権くるんじゃね笑」とグループチャットにおいては気丈に返しますが、そこから心身のバランスを崩し、パニックや嘔吐をおこすようになり、
約2ヶ月後の去年8月、校舎の6階から転落して亡くなったそうです。
自殺。
この悲劇は今、遺族と、その自殺の原因となった友人との間で裁判になっています。
裁判の行方を見守りたいと思います。
それにしても、ひとはなぜ、他人のセクシュアリティに干渉するのでしょうか。
セクシュアリティって、1人の人間を形成する中で、そんなに大切な比重を占めているんですかね。
1人の人間が死ななくてはいけないほどに。
確かにゲイじゃなくなったら俺は今の俺じゃなくなるかもしれないけれど、俺はゲイだからこそ生きているわけではないし、ゲイとして生きているわけでもない。
1人の人間、遊己の1つの要素としてゲイというセクシュアリティがあるだけだと思うのですが。
しかし、そんな俺も大学生の頃、指導教授だったフェニミストの先生に「あなたは自分がゲイであるということに頼りすぎている」と指摘されたことがあります。
その頃の俺は、ゲイとして生きている、という錯覚をしていたのかも。
多感な若い時期。
特に他人との違いに否応無しに気づかされるゲイなどのセクシュアリティマイノリティは、自分はなぜひとと違うのだろうなどと悩み考え、その結果、自分とは何者かを考えた時に、セクシュアリティの占める割合が大きくなるのかもしれません。
この歳になって思うのです。
俺は俺のしたいセックスをするだけだと。
俺のセックスに関わりのない他人がなんと言おうとね。
痴漢や盗撮などは言語道断ですが、もちろん。
「お前、ゲイだろ」
というようなストレート男子のからかいはもちろん、
「ゲイなんでしょ?言いなよ」
「私、理解あるから大丈夫だよ」
というような、理解者のふりをしたカミングアウトの強要も要りません。
俺がその人のセックスに興味がないように、その人に対しても俺のセックスに興味を持ってもらいたいと思っていません。
セクシュアリティを隠す必要はないけれど、あえて暴く必要もないですよね。
とは言え、偏見に満ちたこの世の中。
セクシュアリティに基づいた差別や偏見がなくなるまで、どれだけの時間がかかるのだろう。
変革を起こす者は、その人自身はたいていその時代において悲運な目にあってきた、と言っていたのも大学時代の先生でした。フェニミストの先生とは別の人ですが。
でも、せめて、まずは第一歩。
悩んでいる人が、他人は変えれなくても自分を変えられるといいな。
自分で自分を否定し、自らを傷つけたり命を絶つような悲しいことが減ってほしい。
あなたは、あなたのしたいセックスをすればいい。
あなたが必要とし、あなたを必要とする人はきっと現れるから。
ふと今夜はそんなことを思っています。
人間はめんどくさい生き物ですよね。
セクシュアリティ云々そんなの考え、自殺するのは、人間くらいかなと思う。めんどくせー
みんな、それぞれがんばって生きているのにね…
他人に否定されることより、自分で自分を否定して死ななくてはいけないほど追いつめられてしまうのは悲しいことですね。
一人でも多くの人が自由に生きれるようになるといいな。